私のフォトホームごらんあれ
11月の晴れた日に見かけた観光案内板「八丈岩」にひかれ散策することになりました。古神道の磐座、静かな佇まい、頬をなでる風の心地よさ、大自然はいいなぁー。
神辺を散策 | ||
唐尾山・備後国分寺 堂々川・砂溜の記録 八丈岩 | ||
国道313号を東進し、神辺町下御領の亀川病院が左角にある交差点を左折し、少し進むと突き当りになる。そこを左折して旧道(山陽道)へ狭い道路なので離合に注意しながら少し西進すると、道路が二股に 分かれているので右手の更に狭い道を進むと右手に池があり、池の先に下御領八幡神社社殿が見える。 |
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下御領八幡神社 | ||
祭神 誉田別命、息長足姫命、田心姫命、湍津姫命、市杵姫命 例祭 十月第一日曜日(旧例祭日 旧暦十月十五日) 由来 天平年中(七二九~四九)の創立と伝えられ、宇佐八幡宮より勧請し、国分寺の鎮守社であったという。 応仁の乱(一四六七~七七)後社殿大破し、山名宮内少輔忠勝が永正年中(一五〇四~二一) 本殿及び拝殿を再造立して社領二十貫を付けた。その後、天文年中(一五三二~五五)、大内家臣、 宍戸安芸守隆家が当社背後の茶臼山に築城し、当社に武運を祈願したという。 永禄元年(一五五八)杉原氏が神辺城主となると家臣菊池肥前守がここに在城し、武運を祈願して 戦功があり、永禄五年三月、毛利元就の命により国分寺と共に当社を杉原盛重が修復した。 永宝元年(一六七三)五月十六日大水害により社殿大破し、貞亨三年(一六八六)福山城主水野氏の命を 似て大修復した。その当時の棟札が現存する。大正十年本殿を大修理、昭和三十五年拝殿を再建する。 御祭神の応神天皇(誉田別命)は第一五代の天皇。神功皇后(息長足姫命)はその母君で共に 日本の国家形式を確固たらしめ、大陸文化を輸入し、日本文化の興隆をはかられた。 広島県神社庁 深安二十六社神社めぐりより引用 |
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唐尾山・備後国分寺{【正式名称:金光明四天王護国之寺】(僧寺)} 中国四十九薬師霊場第十二番札所 |
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南大門跡の参道入口付近から福山市指定保護樹林の黒松が三十数本聳え立っていた。 | ||
南大門跡を少し入ると右手に国土地理院の水準点がある。 水準点は高さの基準点(水準点は道路脇にある) 三角点は位置の基準点。三角点は見晴らしの良い所(山の上や崖の上など)にある。 |
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参道両脇に立ち並ぶ黒松の間を進むと勇壮な仁王門が迎えてくれる。 | ||
門前に菅茶山(本姓は菅波 名は晋帥)の詩が石碑に刻まれている。 「討ち寄れば袖も色濃くなりにけり 籬の露の萩の花摺り」晋帥 |
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2016/12/10 仁王門に金剛力士像はご不在でした。 仁王門の左手の掲示板に「仁王像並びに仁王門修復のための写経勧進のご案内」と題し張り紙がして ありました。その中に以下のように書かれています。(抜粋) 備後国分寺仁王門に安置されてきた金剛力士像二躯・仁王像は、時の福山城主水野勝種公が大檀那となり 現在の伽藍が再建されてまもなくの、元文年間当山中興三世道海上人の時これを造像し、 元文五年仁王門を建立。以来二百七十余年に亘り仁王像は国分寺の玄関に安置され伽藍を守護、 数多の参詣者を迎え入れて参りました。この国分寺の仁王像は、阿形吽形二体の配置が通常と異なり、 東大寺南大門仁王像に倣い向かって右に吽形左に阿形が配置されています。 また、その姿態バランスや像容全体など東大寺南大門像を強く意識していると考えられ、 その文化的な価値が高く評価されているところであります。ところで、造像から今日まで四度に亘り 仁王門の修理が為されてきたことが、この度仁王像搬出後台座から墨書が発見され明らかになっています。しかし、仁王像の本格的な修理は為されず、表面の彩色のみ施され幾星霜が経ち、 いつの間にか寄木の矧ぎ目が緩み、鉄釘や鎹は腐食し、脛下部の虫食いや手足の指も欠け、 造立当時持っていた金剛杵は欠損、天衣は剥落して残骸のように置かれたままで、 今後の保存継承に支障を来すことが懸念されておりました。中略、 平成二十七年十月に仁王像の保存修理を修理工房へ依頼、搬出。 平成三十年一月に保存修理が完了予定などと記されていました。 |
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唐尾山 国分寺の全景 | 本堂 | 鐘楼 |
縁に御影石の石臼(碾き臼)が並べられている。 | ||
唐尾山 国分寺前の道を西に道なりに進むと唐尾山八十八ヶ所 第一番 霊山寺を右手に見ながら進むと 堂々川に架かる名前不詳の橋が見え、突き当りを右折して堂々川砂留群、堂々公園、八丈岩方面へ向かう。 |
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堂々川・砂溜の記録 砂防指定地 堂々川(明治34年7月5日内務省告示第46号) 堂々川は一級水系芦田川支川高屋川の小支で、流域は2k㎡と小さいが江戸時代に渓流砂防工事が 実施された代表的な渓流である。「福山に藩政時代のの砂防工事がある」という言い伝えがあり、 土地の人は砂留と言っている。延宝元年(1673)堂々川では国分寺が流出し、63名の溺死者があった。 このあと水野勝種は、洪水などの災害を避けて国分寺を上流側へ再建したのが元禄7年(1694)であり、 この頃砂留も合わせて施工したものと思われるが定かではない。福山藩は堂々川とその周辺に砂留工事を 実施したほか、市村・山手村・津之郷村・本郷村など広い地域にわたって実施しており、 天保年間(1830~1844)の賃銀台帳や、歩掛などの資料から、砂留工事は藩における重要な施策の一つで あった事がわかる。と案内板に記されている。 |
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堂々川一番砂留 | 上が江戸時代の砂留の遺構 | |
江戸時代の砂留の遺構である。 堤体は、盛土で築造されていたため盛土部分が左右岸とも流出した |
右岸から見た江戸時代の砂留 | 一番砂留から下流を望む |
堂々川二番砂留 | 石組みの砂留は弧を描きアーチ状である。 | |
堂々川三番砂留 | 天保3年(1832)に施工した記録がある。 積石に特徴があって層工したことがよくわかる。と記されている。 下流の二番砂留から見た三番砂留の堤体 |
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砂留堤体の下流側は階段状にアーチ形に施工している。 | 堤体の上流側下部には石が ゴロゴロして、堂々川の清流あり |
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堂々川四番砂留 | ||
堂々川五番砂留 | ||
右岸側から眺めた五番砂留の堤体 | ||
左岸側から眺めた五番砂留の堤体 | ||
鳶ヶ迫砂留 幹線道路右手にある堂々川五番砂留を見て、反対側左手に堂々川の支川に築造されている鳶ヶ迫砂留は 幹線道路脇から小さな砂留(堤)が数段あり、150m先に大型の鳶ヶ迫砂留がある。 |
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下流からの眺め | ||
上流に向かう谷の石組みの堤 | ||
鳶ヶ迫砂留 | 鳶ヶ迫砂留から下流の眺め | |
鳶ヶ迫砂留に行く道すがら、2012年ころに植栽された十月桜が開花していた。 | ||
堂々公園 幹線道路と堂々公園の境に植栽されている山茶花。 堂々公園は、神辺町のほぼ中央を南北に流れる堂々川に、江戸時代に築造された石積の6番砂留堆砂敷を利用して低水路を整備、その周辺に遊歩道、藤棚、休養施設を設置し、水路の接水部分に庭園風の石組をつくり、 小川のせせらぎを感じさせてくれる。 |
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堂々川六番砂留 五番、六番、鳶ヶ迫砂留は20数層に石組みされ大型である。 |
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2021/9/25 彼岸花がボツボツ終花を迎えていた。 | ||
内廣砂留 堂々公園北側に内廣砂留の案内石碑があるが、山道は小笹に覆われている。 少し藪漕ぎをして進むと水の流れで土が削り取られた山道になる。 |
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内廣砂留の手前下流の小規模な堤 | 下流側 | |
水生植物・浮葉植物 ヒルムシロ科ヒルムシロ属 堤の水溜りにオヒルムシロが生えている。 |
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内廣砂留 小笹藪に覆われた内廣砂留を右岸から眺める。 |
左岸から眺める。 | |
淀ヶ池 堂々川・堂々公園の上流の淀ヶ池は透明度が高いようだ。 池では、カモ目カモ科のホシハジロの群れが泳いでいた。 |
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1月22日 カモ目カモ科のホシハジロの群れが泳いでいた。全長:42~49㎝ |
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八丈岩 広島県神辺町 淀ヶ池北側の幹線道路を走行すると右手に「八丈岩」と書かれた案内板が目に留まったので行く事にした。 |
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淀ヶ池の北側に広い駐車スペースと砂留があり、四季の森と名付けられている場所には ソメイヨシノ桜が植栽され、グランドゴルフグランドもあるようです。 淀ヶ池の縁を右廻りして八丈岩の案内板に従って八丈岩に向かう。 |
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苔生した木材チップ舗装細道を 東へ八丈岩を目指す。 |
四季の森には、トサミズキ、山桜、チューリップの木、モミジ、 ガクアジサイ、ニシキギ、ヤマコウバシ、ウメモドキ等が見られる。 |
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ウメモドキ:モチノキ科 落葉低木 初秋~冬に赤い実が美しい。小鳥が好んで、実を啄ばむ。 |
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丸太で土止めされた九十九折れの階段を3分ほど登ると肘曲がりになる。 | ||
淀ヶ池から上り坂を写真を写しながら歩いて、ここまで約12分、左の1枚目の写真の右端の細道を上って来た 鬼伝説の左に青鬼の権、右に赤鬼の八の出迎え鬼が立っている。 |
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細道に自然が織りなす岩の点在が見られる。 | ||
淀ヶ池から約20分。空の森と名付けられた場所の第28番霊場・小八丈にたどり着いた。 古神道における岩に対しての信仰の場所である磐座だ。伝説に語られている御領山の奇岩、巨岩の数々 |
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第25番霊場の長く横たわる岩 | ||
第26番霊場 広見岩の周辺に点在する岩 | ||
傅馬岩、鯨岩、大亀岩、牛岩、千人隠れ岩などと巨岩に名前が付けられている | ||
両脇の岩に挟まれているだけの磐座の通り抜けはスリル感が味わえますよ。 | ||
大亀岩と名付けられ、長く突き出た岩が、上手くバランスを保っている事への不思議。 | ||
岩の裂け目に生命力の凄さを感じさせていただく松の木が息づいている。 | ||
十五番霊場 鯨岩と名付けられている。 人が立って通り抜けられます。 | ||
祈りの対象とされている巨岩の周りに観音菩薩様が鎮座されている。 | ||
小八丈から八丈岩に向かう途中に社殿は見当たらなかったが、鳥居があり、神額に正一位巖大明神と 左の柱には国家安全五穀豊登祈攸右の柱には弘化五戊申歳(1848年)二月吉旦と刻まれている。 祠や手水鉢、灯篭などもある。 『御領大石百景』御領大石を愛する会発行より この神社は、元は近くにあったとされる「藁尾山城」鎮護の神として崇敬されていたものが、 城主没後に大破しそのままだったものを、江戸末期に再建したものらしい。 |
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八丈岩の鬼伝説案内板 御領山の山頂には栗の木がたくさん茂っていた。 向かいの権現山は岩山。それぞれ鬼がすんでいた。 ある時、山の高さのことでケンカになった。 八丈岩の鬼は栗を、権現山の鬼は岩を投げあったので、 御領山は岩だらけ 権現山は栗山になってしまった。 そして、御領山は岩のぶんだけ高くなったそうな。 と御領駅前の八丈岩の鬼伝説案内板に記されている。 |
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御領山から神辺平野、 御領駅付近の遠望 |
井原鉄道の御領駅から八丈岩まで2000m | |
八丈の大きさが云われている大岩の八丈岩 | ||
市営のゴミ処理施設の手前、T字路付近の左手法面上に堺岩がある。 | ||
「堺岩」の由来 |
この「堺岩」は、明治8年12月1日に刻字されたものであります。 江戸時代は、山も田圃もみんな封建領主のものでありました。 それでも、食物を煮炊きする薪、米や麦を生産するのに必要な堆肥づくりのための下草刈り、雨露を凌いで住む小屋がけの家づくりの僅かな木材やワラビ、ゼンマイ、イタドリなどの山菜採りなどには、山の一部分を使用させていました。 このような山を「野山(のさん)」あるいは、「入会山(いりあいやま)」と呼んでいました。 農民にとって山は命そのもので、生活に欠かすことのできない本当に大切なものでありました。 時代は流れ封建領主の徳川幕府は倒れ、1867年(慶応3)大政奉還があり、封建時代は終わりを告げた。 1869(明治2) 版籍奉還~土地は封建領主の手から離れ、すべて国有 1870(明治3) 上和命令~土地はすべて国有となる。 1872(明治5) 大政官布告第50号 土地の私有権を認める。 1872(明治5) 大蔵省達第25号 地券渡方規則制定める。 1873(明治6) 大政官布告第114号 地所名称区別によって官有地、 民有地の区分が明確になった。 当時はまた地方自治体制度はない。 1874(明治7) 大政官布告120号 地所名称区別改正 1875(明治8・10・9) 大政官布告154号 地所名称区別改正で漸く 官民区別が確立。 このような経過をたどり「上御領村持」の山となり、自分たちの テリトリーを雄叫びのように主張したものと思われる。 当時の農民の爆発的なエネルギーを感じる。と記されている。 |
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