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鞆皿山焼窯跡

2008年から発掘調査が始まっていたようです。
私が知ったのは、2010/1/18のテレビニュースです。

鞆皿山焼窯跡
2008年から発掘調査が始まっていたようです。私が知ったのは、2010/1/18のテレビニュースです。
発掘調査には「太田家住宅を守る会」と研究者、文化財保存全国協議会常任委員で
同志社大大学院元講師の鈴木重治さん、中近世備前焼研究会の伊藤晃会長、岡山理科大の白石純准教授たちが
実施していると云う。
鞆皿山焼窯窯跡は地元の太田家が所有) 焼窯の左側面の写真
2010/1/18のテレビニュースで鞆町の山中に幕末から昭和初期頃まで
薬用酒「保命酒」を入れる容器造りをした「鞆皿山焼」の登り窯が見つかり、
窯の周辺の雑木や竹を切り整備し、観光客に見てもらえるように行政などに
保存活用に向けた提言をしていくという。
保命酒屋の中村家が幕末の慶応元年(1865)に保命酒を入れる徳利を造る為に開いた窯だと云う。登り窯内部がアーチ状になっているのは非常に珍しいという。
焼窯の正面の写真 
焚口が2つある。
全長⇒煙道を含めて五十一m 幅 ⇒八m
十二室の連房式構造
江戸末期のものとして現存する窯の中でも鞆皿山焼窯跡は
全国でも最大規模だと云う。
焼窯の右側面の写真
雑木や孟宗竹に覆われていたものを見事に片づけられていた。
窯を崩落させないように発掘作業をされる方は細心の注意をはらい
往時の姿を見事に現わせていた。
窯12室目煙道部 土管製の煙突
機械があったわけでもないのに、人力でこれだけ大きな窯を山の斜面を活かして
造り上げたとは大したものです。
地元の81歳の古老に聞くと、70歳くらいの人は窯の存在を知っている人は少ないだろうと云う。
81歳の古老は子供の頃に粘土をこねたり、窯の周りで遊び窯の存在を知っていたと云う。
 
アーチ状の窯内部 十二室の連房式構造
一部崩落している窯もあるが、これは綺麗に残っていた。
煉瓦を組み上げて見事に造られている。
徳利、鉢、花瓶などを焼く時に使われた台座。
鞆皿山焼は釉薬を使わず土本来を活かした備前焼に似ている。
2010/1/26
鞆皿山焼窯跡は青いシートに覆われていた。
以下の写真は住宅に使用されていた瓦に刻印されていたロゴマーク


菊間瓦か? メーカーの刻印